吉田松陰の妹・杉文(楫取美和子)の物語|2015年大河ドラマ「花燃ゆ」

晩年を防府で過ごす

防府に居住を移す

 明治20年(1887年)5月、楫取素彦が男爵を授かると、文は男爵夫人として晩年を過ごすようになります。さらに素彦は明治23年(1890年)7月には貴族院議員に、同年10月20日には錦鶏間祗候になります。
 しかし、素彦は次第に故郷に対する思いが強くなります。明治25年(1892年)4月には山口県防府市三田尻に華浦幼稚園の設立を夫婦で支援し、明治26年(1893年)には三田尻に家を建て夫婦そろって移り住みます。

 

素彦、貞宮多喜子内親王の養育主任になる

 明治30年(1897年)8月、素彦は貞宮多喜子内親王(さだのみやたきこないしんのう・明治天皇の第十皇女)の養育主任に任命されます。そのため、素彦と文は再び東京に戻ることになりました。そして、青山離宮に設けられた貞宮御殿で数人の手伝いの者とともに、夫婦で養育に務めます。しかし、貞宮は明治32年(1899年)1月わずか3歳で夭逝してしまいます。その死に夫婦そろって嘆き悲しみました。その後、素彦と文は再び防府に戻ります。

 

防府で晩年を過ごす

 防府に移り住んだ後も素彦は貴族院議員の仕事のため、東京と防府を往復します。明治43年(1910年)、素彦に宮中杖(鳩杖)が与えられました。この宮中杖とは80歳以上の功臣に宮中から与えられるものです。明治時代に宮中杖を与えられた者は数人しかおらず、これは格別の待遇といえるでしょう。そして、その2年後、大正元年(1912年)8月14日、素彦は三田尻にて没します。享年84歳でした。それから約10年後の大正10年(1921年)、文も79歳でこの世を去ります。素彦の死後、文がどのように暮らしていたのかは知られていません。素彦と文は、防府市大楽寺の墓地に眠っています。

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