吉田松陰の妹・杉文(楫取美和子)の物語|2015年大河ドラマ「花燃ゆ」

松陰・文たちの逸話|「花燃ゆ」の世界記事一覧

松陰・文の誕生

松陰、下士の二男として生まれる 文政13年(1830年)8月4日、吉田松陰は長州藩士・杉百合之助(すぎゆりのすけ)、母・滝の二男として、萩城下の松本村で生まれます。幼名は虎之助、後に大次郎、寅次郎などと名を改めます。 杉家は下士の身分である”無給通(むきゅうどおり)”で、禄高は二十六石でした。それだ...

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松陰、九州遊歴に発つ

松陰、一層の成長のため遊学を決意 弘化5年(1848年)1月、吉田松陰は19歳で明倫館の兵学師範として独立し、講義を受け持ちます。しかし、松陰が新米教師だったからか、それほど人気にはなりません。松陰はもっと教師として成長しなければいけないと痛感します。また、天保10年(1839)のアヘン戦争にて、清...

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松陰、江戸に遊学、佐久間象山と出会う

参勤交代に同行し江戸へ 嘉永3年(1850年)末、吉田松陰は九州遊学から長州へ帰国します。九州で刺激を受けた松陰はもっと見聞を広めたいと、今度は江戸への遊学を計画します。都合が良かったことに、近々参勤交代が予定されていました。松陰はその参勤交代に同行することが許されました。こうして嘉永4年(1851...

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松陰、宮部鼎蔵と東北遊学へ

手形を持たずに東北へ 吉田松陰は江戸で宮部鼎蔵と再会してまもなく、安房、相模へ旅行します。その時、海岸線の警備を視た二人はその頼りなさに落胆したといいます。そこで二人は北方の警備を視察すべく東北遊学を計画します。 松陰らは出発予定日を嘉永4年(1851年)12月15日と決めます。ところが出発直前にな...

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松陰、海外へ密航を試みる

黒船に衝撃を受ける 10年間の他国修行が許された吉田松陰は、関西遊学を経て、嘉永6年(1853年)5月24日に再び江戸に戻りました。その直後6月3日、マシュー・ペリーが浦賀に来航すると、佐久間象山と黒船を視察し、その最新文化に衝撃を受けます。それから松陰は象山のもとに足繁く通うようになり、海外事情や...

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松陰、杉家の敷地で松下村塾を開く

野山獄で囚人相手に授業を行う 安政元年(1854年)10月24日、吉田松陰は野山獄に収容されます。獄中生活では、本を読んだり、囚人相手に授業を行ったりしたといいます。読んだ本は五百冊以上。また、囚人には古典や歴史を教え、その教育によって、獄中の風紀が一変したともいわれています。安政2年(1855年)...

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文と久坂玄瑞が結婚する

松陰、玄瑞を気に入り、妹・文と結婚させたいと思う 吉田松陰は松下村塾の弟子の中でも血気盛んな玄瑞をとくに気に入ります。玄瑞が幼くして家族を失った孤独な身であると知ると、妹の文と結婚させたいと思うようになります。松陰と交流のあった勤王僧・月性(きんのうそう・げっしょう)は、文を桂小五郎の妻にするよう勧...

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松陰、老中暗殺を計画する

幕府の無勅許による日米修好通商条約に憤慨する 安政5年(1858年)6月19日、大老井伊直弼がアメリカとの日米修好通商条約を締結します。外国嫌いであった孝明天皇は強く攘夷を主張していたため、井伊直弼は勅許無しで強行したのでした。これに吉田松陰は激しく怒り、将軍こそ天下の逆賊と幕府を非難します。老中・...

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松陰、伝馬町獄で斬首される

安政の大獄に連座する 井伊直弼は日米修好通商条約の調印後、いっせいに反対派の弾圧を始めました。いわゆる安政の大獄です。吉田松陰は勤王家・梅田雲浜との密議、京都御所内で見つかった落とし文が松陰のものではないかと疑われます。間部詮勝暗殺計画のことは知られませんでしたが、安政6年(1859年)4月、松陰は...

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玄瑞、松陰の遺志を継ぐ

松陰死後、遺志を継ぎ、国事に奔走する 安政6年(1859年)10月27日、吉田松陰が刑死すると、久坂玄瑞はその遺志を継ぎます。まず、松下村塾の塾生を束ねて塾を復興させます。その後、再び江戸や京都の国事に奔走するようになり、尊王攘夷運動の先頭に立つようになります。 特に和宮降嫁による公武合体(孝明天皇...

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長州藩尊王攘夷派の躍進

英国公使館焼き討ち 文久2年(1862年)11月、江戸で久坂玄瑞は高杉晋作と合流します。高杉は外国人の襲撃計画に誘いますが、玄瑞はそのような無謀な振る舞いをせずに正々堂々と攘夷を実行するべきだと反対します。2人は激しく議論しますが、井上聞多(いのうえもんた)が上手く間に入り、結局玄瑞が受け入れます。...

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玄瑞、禁門の変にて死す

八月十八日の政変にて長州藩敗れる 長州藩は大和行幸(やまとぎょうこう)と攘夷親征(じょういしんせい)を奏請し、文久3年(1863年)8月13日、孝明天皇から詔勅が下りました。この時が、長州藩の尊王攘夷派の絶頂期でした。ひそかに会津藩と薩摩藩を中心とした公武合体派は、中川宮朝彦親王を擁して尊王攘夷派を...

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長州征討軍、長州から撤退する(第一次幕長戦争)

幕府が長州征討に向かう 禁門の変後、長州藩主・毛利敬親と定広の親子に禁門の変を起こした罪で、元治元年(1864年)7月23日、朝幕は長州征討を宣言します。幕府は、尾張越前および西国諸藩より長州征討軍を編成します。最終的な長州征討軍の藩の数は35藩、兵は総勢15万人とされています。11月11日、長州征...

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晋作、功山寺で挙兵する

晋作、功山寺で挙兵する 元治元年(1864年)11月、俗論党から逃れた高杉晋作は、正義党の諸隊に軍事決起を呼びかけます。しかし、応じるものはいませんでした。当時、諸隊は幕府軍の介入を招きかねない行動に反対であり、奇兵隊総督・赤根武人による長州藩政府との融和工作も順調であったためです。その後晋作は福岡...

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第二次幕長戦争始まる

長州藩、幕府戦への準備を進める 長州征討軍撤退後、長州藩への処分内容について、藩主の江戸への護送などの沙汰処分を主張する幕府と、京都で合議による決定を主張する西国雄藩が対立します。この対立を打開するため、幕府は長州の征討を再度宣言します。 長州藩は、征討に備え藩政府改革を実施し、事実上のトップに桂小...

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第二次幕長戦争は長州の圧勝におわる

幕長戦争は長州が圧勝する 慶応2年(1866年)6月7日、幕府による大島口への砲撃を皮切りに、13日には芸州口、17日には石州口、小倉口の各藩境で戦闘が開始されました。長州藩は兵の数で劣りながら、次々と勝利を重ねます。 小倉口では、小笠原長行を総督とする九州諸藩と高杉晋作、山縣有朋らが率いる長州藩と...

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毛利家の守役となり、名を美和子と改める

養子の粂次郎が久坂家を継ぐ 元治元年(1864年)、玄瑞が禁門の変において自害すると、養子の粂次郎(くめじろう・のちの道明)が養子となり久坂家を継ぐことになりました。粂次郎は文の姉・寿(ひさ)とその夫・小田村伊之助(おだむらいのすけ・のちの楫取素彦)の二男で、文の甥にあたる人物です。毛利家の守役とな...

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楫取素彦、群馬県令となる

 楫取素彦は明治維新後いったん帰国して藩に出仕するようになります。明治5年(1872年)に足柄県参事、明治7年(1874年)に熊谷県権令(県令に次ぐ県の地方長官)となり、明治9年(1876年)の熊谷県改変に伴って新設された群馬県令となりました。 素彦の在任中には、群馬県庁移転問題で前橋が正式な県庁所...

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萩の乱

 明治9年(1876年)、前原一誠は郷里の人々の不遇を見捨てられず、山口県萩で明治政府に対する士族反乱・萩の乱を起こします。しかし、東京へ向かうなか、悪天候で出雲の宇竜港に停泊中、11月5日に逮捕されます。 12月3日、判決が言い渡され、首謀者とされた前原は即日斬首されました。 文の叔父・玉木文之進...

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美和子、楫取素彦と再婚する

 明治14年(1881年)、群馬県令・楫取素彦に嫁いでいた美和子の姉・寿がなくなりました。母・滝は残された2人の孫を案じ、美和子に素彦との再婚を勧めました。そのこともあり、明治16年(1883年)、美和子は素彦と再婚することになりました。この時、美和子40歳でした。また、素彦も群馬県令として多忙を極...

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素彦、富岡製糸場の存続のために奔走する

 楫取素彦が群馬県令を勤めているなか、群馬県富岡の製糸工場、富岡製糸場は存続の危機にさらされていました。 このころ政府は採算の取れない官営事業の民間への払い下げを促進し、請け負う者がなければ廃止するという方針を打ち出していました。しかし、富岡製糸場は、その巨大さのため、払い下げを希望する者は現れず、...

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晩年を防府で過ごす

防府に居住を移す 明治20年(1887年)5月、楫取素彦が男爵を授かると、文は男爵夫人として晩年を過ごすようになります。さらに素彦は明治23年(1890年)7月には貴族院議員に、同年10月20日には錦鶏間祗候になります。 しかし、素彦は次第に故郷に対する思いが強くなります。明治25年(1892年)4...

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