吉田松陰の妹・杉文(楫取美和子)の物語|2015年大河ドラマ「花燃ゆ」

松陰、宮部鼎蔵と東北遊学へ

手形を持たずに東北へ

 吉田松陰は江戸で宮部鼎蔵と再会してまもなく、安房、相模へ旅行します。その時、海岸線の警備を視た二人はその頼りなさに落胆したといいます。そこで二人は北方の警備を視察すべく東北遊学を計画します。
 松陰らは出発予定日を嘉永4年(1851年)12月15日と決めます。ところが出発直前になっても、長州藩から松陰の過書手形(通行手形)が発行されません。松陰は友人との約束を優先し、発行を待たずに脱藩します。

 

帰国後罪に問われる

 東北遊学では、水戸で会沢正志斎と面会します。その後、会津で日新館や鉱山の見学、秋田では相馬大作事件の真相を地区住民に尋ね、津軽では津軽海峡を通行するという外国船を見学しようとします。
 嘉永5年(1852年)4月5日、松陰は東北遊学を終えて江戸に戻ります。脱藩者の松陰はまもなく送還され、士籍剥奪・家禄没収という重い処分を受けました。しかし、父・杉百合之助の願いにより、松陰は10年間の他国修行が許されました。その裏には藩主・毛利敬親と百合之助の申し合わせがあったといわれています。

松陰、宮部鼎蔵と東北遊学へ関連ページ

松陰・文の誕生
吉田松陰は長州藩士・杉百合之助、母・滝の二男として、杉文は四女として生まれます。文が生まれたのは松陰が14歳のときでした。
松陰、九州遊歴に発つ
吉田松陰は西洋兵学などの見聞を広めるために九州遊歴に出発します。
松陰、江戸に遊学、佐久間象山と出会う
吉田松陰は江戸に遊学し、佐久間象山と出会います。
松陰、海外へ密航を試みる
吉田松陰は黒船を視察し最新の文明に衝撃を受けます。なんとしても西洋の文明に触れてみたいと思った松蔭は海外への密航を企てます。
松陰、杉家の敷地で松下村塾を開く
野山獄に収容された松蔭は、囚人を相手に授業を行います。出獄後、杉家で松下村塾を開塾します。
文と久坂玄瑞が結婚する
吉田松陰の妹・杉文は、松下村塾の塾生である久坂玄瑞と結婚します。
松陰、老中暗殺を計画する
孝明天皇の意向を無視した大老・井伊直弼の強行に、吉田松陰は激しい怒りを覚えます。
松陰、伝馬町獄で斬首される
井伊直弼は日米修好通商条約の調印後、いっせいに反対派の弾圧を始めました。いわゆる安政の大獄です。吉田松陰も反対派の1人として連座させられました。
玄瑞、松陰の遺志を継ぐ
吉田松陰の死後、松下村塾塾生の久坂玄瑞が尊王攘夷の遺志を継ぎ、奔走します。
長州藩尊王攘夷派の躍進
長州の藩論が尊王攘夷に変わると、久坂玄瑞や高杉晋作らが中心となり、活動を繰り広げます。
玄瑞、禁門の変にて死す
会津藩と薩摩藩を中心とした公武合体派のクーデターにより長州藩は窮地に追い詰められます。長州藩軍は京へ進発し禁門の変が起こります。
長州征討軍、長州から撤退する(第一次幕長戦争)
禁門の変を起こした罪により、朝廷は長州征討を宣言します。
晋作、功山寺で挙兵する
長州の内部抗争から逃れた高杉晋作は、残った諸隊を説得し、功山寺で挙兵します。
第二次幕長戦争始まる
幕府は長州の征討を再度宣言します。長州藩は藩政府改革を実施し、西洋式への軍制改革を行い征討に備えます。
第二次幕長戦争は長州の圧勝におわる
幕府の大島口への砲撃を皮切りに、長州藩の各藩境で戦闘が勃発します。
毛利家の守役となり、名を美和子と改める
夫・久坂玄瑞を禁門の変で亡くした文は、毛利家の守役となります。このころ名を美和子と改めたといわれています。
楫取素彦、群馬県令となる
杉美和子(杉文)の姉・寿の夫である楫取素彦が群馬県令に就任します。
萩の乱
前原一誠は郷里の人々の不遇を見捨てられず、萩で明治政府に対する反乱を起こします。
美和子、楫取素彦と再婚する
群馬県令・楫取素彦は、亡くなった妻・寿の妹である美和子(文)と結婚します。
素彦、富岡製糸場の存続のために奔走する
楫取素彦が群馬県令を勤めているなか、群馬県富岡の製糸工場、富岡製糸場は存続の危機にさらされます。
晩年を防府で過ごす