吉田松陰の妹・杉文(楫取美和子)の物語|2015年大河ドラマ「花燃ゆ」

晋作、功山寺で挙兵する

晋作、功山寺で挙兵する

 元治元年(1864年)11月、俗論党から逃れた高杉晋作は、正義党の諸隊に軍事決起を呼びかけます。しかし、応じるものはいませんでした。当時、諸隊は幕府軍の介入を招きかねない行動に反対であり、奇兵隊総督・赤根武人による長州藩政府との融和工作も順調であったためです。その後晋作は福岡に逃れ、平尾山荘に匿われますが、正義党の家老が処刑されたと聞くと下関へ帰還します。
 晋作は力士隊総督・伊藤俊輔(博文)の賛同を得て、遊撃隊総督・石川小五郎を説き伏せます。12月15日、晋作は諸隊を率いて功山寺で挙兵します。翌日、晋作らは下関新地会所を襲い、三田尻(みたじり)で藩船2隻を奪って下関に帰航します。

 

長州藩、追討隊を結成する

 長州藩政府は、12月19日、正義党幹部7名を斬首します。そして、毛利宣次郎(もうりせんじろう)を総奉行とした諸隊追討隊を出発させます。正義党の諸隊は武装解除を迫られ、赤根による融和工作は全て失敗となりました。
 この時、楫取素彦も野山獄に投じられ、妻の寿と文がしばしば素彦のもとに差し入れに訪れるようになります。文は獄の雰囲気を恐れましたが、寿は興味津々だったといいます。

 

正義派政権誕生、藩の実権を握る

 慶応元年(1865年)1月6日、晋作らは絵堂(えどう・山口県美祢市)の政府軍を襲撃します。10日間による武力衝突のなか、中立派が晋作らに味方したことが決め手となり、勝利します。
 長州藩主・毛利敬親は俗論派の首魁・椋梨藤太(むくなしとうた)を罷免します。2月初旬には晋作らを中心とする正義派政権が誕生し、藩の実権を握ることになりました。

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