吉田松陰の妹・杉文(楫取美和子)の物語|2015年大河ドラマ「花燃ゆ」

長州征討軍、長州から撤退する

幕府が長州征討に向かう

 禁門の変後、長州藩主・毛利敬親と定広の親子に禁門の変を起こした罪で、元治元年(1864年)7月23日、朝幕は長州征討を宣言します。幕府は、尾張越前および西国諸藩より長州征討軍を編成します。最終的な長州征討軍の藩の数は35藩、兵は総勢15万人とされています。11月11日、長州征討軍の配備が完了すると、長州征討軍の総督・徳川慶勝(とくがわよしかつ)は、18日に攻撃を開始することを命じます。

 

長州藩分裂の中、高杉晋作が脱出する

 長州征討軍が迫る中、長州藩は、武備恭順派の正義党と完全恭順派の俗論党に分裂していました。この分裂を利用しようと考えたのが西郷隆盛でした。隆盛は俗論党に、禁門の変を主導した三家老・四参謀の処刑を条件に、恭順を働きかけます。一方、正義党は四カ国聯合艦隊による下関砲撃が大打撃となり、さらに周布政之助の自害、井上馨の遭難が重なり、勢力が完全に消えかかっていました。長州藩は椋梨藤太(むくなしとうた)を中心とする俗論党が大半を占めるようになりました。
 正義党の奇兵隊以下の急進派諸隊が反発し、三家老の強奪を計画します。しかし、長州藩は11月11日~12日、三家老・四参謀の処刑を実行します。俗論党は正義党幹部を次々と投獄しますが、高杉晋作は間一髪脱出に成功します。
 ちなみに、俗論派・正義派という呼び方は晋作がしたもので、自らを「正義派」と称しています。

 

長州の謝罪により長州征討軍が撤退

 三家老・四参謀の処刑を受け、徳川慶勝は攻撃計画を中止します。さらに、毛利敬親・定弘親子からの謝罪文書の提出、および五卿(七卿の生き残り)の九州諸藩への移転により、慶勝は長州征討軍の撤退を命じました。

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