吉田松陰の妹・杉文(楫取美和子)の物語|2015年大河ドラマ「花燃ゆ」

玄瑞、松陰の遺志を継ぐ

松陰死後、遺志を継ぎ、国事に奔走する

 安政6年(1859年)10月27日、吉田松陰が刑死すると、久坂玄瑞はその遺志を継ぎます。まず、松下村塾の塾生を束ねて塾を復興させます。その後、再び江戸や京都の国事に奔走するようになり、尊王攘夷運動の先頭に立つようになります。
 特に和宮降嫁による公武合体(孝明天皇の御妹皇女和宮を将軍の正室に置くことで朝幕の関係を安定させる策)や長井雅楽(ながいうた)による航海遠略策(広く世界に通商航海して国力を養成したうえで諸外国と対抗していこうとする策)に反対し、藩の枠組みを超越した連携を模索します。
 文久元年(1861年)には、江戸で長州・薩摩・土佐3藩の有志による結託を訴えます。薩摩からは樺山三円(かばやまさんえん)、土佐からは武市瑞山(たけちずいざん)が応じ、各藩が連携して大義を実現しようと決意するのでした。
 このように目まぐるしく活動する一方で、玄瑞と文はほとんど一緒に暮らすことがなく、結局2人の間に子供が生まれることはなかったのです。

 

長井雅楽の失脚に成功、藩を尊皇攘夷に転換させる

 長井雅楽の「航海遠略策」により、長州藩は公武合体論に傾いていました。これに対して、文久2年(1862年)3月、玄瑞や高杉晋作、桂小五郎らは強く反発し、雅楽の排除を要求します。とくに玄瑞の怒りは相当なもので「長井雅楽罪案」を著します。これは雅楽の5つの大罪を挙げて、外国との交易は勅許にて行うものだと弾劾し、訴えるものでした。同年6月には、雅楽を要撃(待ち伏せて攻撃する)を試みますが時期を逃して失敗。京都にて謹慎となります。玄瑞は謹慎中、「廻瀾條議」「解腕痴言」の2冊の時勢論を著します。
 しかし、同年7月、執政の周布政之助(すふまさのすけ)を説得し味方につけると、桂小五郎らが藩主・毛利敬親に攘夷を力説します。敬親はこれに応じ、雅楽は失脚します。さらに玄瑞の書いた「廻瀾條議」「解腕痴言」が敬親に受け入れられ、これが長州藩の藩論となり、完全に航海遠略策から尊皇攘夷へと転換したのでした。長井雅楽は翌文久3年(1863年)2月自刃を命じられます。雅楽を指示する者も多かったのですが、雅楽は藩が二分するのを恐れ自害するのでした。享年45歳でした。

 

謹慎を解かれた玄瑞、尊王攘夷に奔走する

 文久2年(1862年)9月、玄瑞は謹慎を解かれます。まもなく、薩摩・長州・土佐三藩有志の会合に出席。9月末には土佐藩の坂本龍馬、福岡孝弟(ふくおかたかちか)と会談、10月には桂小五郎とともに、朝廷の尊王攘夷派の三条実美(さんじょうさねとみ)・姉小路公知(あねがこうじきんとも)と組み、公武合体派の岩倉具視を排斥して、朝廷を尊攘に転換させました。
 10月はさらに、勅使である三条実美、姉小路公知とともに江戸に向かい、勅旨とともに幕府へ攘夷を迫りました。これに対し、将軍・徳川家茂は翌年上京し返答すると答えました。

 

文は国許で玄瑞の活動を支える

 玄瑞と文はよく手紙でやりとりをしました。文が書いた手紙は残されていないものの、玄瑞が書いた手紙は21通現存しています。そこには義兄・杉梅太郎に金を工面したことの言い訳や冬の着物を送ってくれたことへの感謝の言葉が綴られていました。このことにより、文は玄瑞がいない間、国許で玄瑞の活動を支えていたことがうかがえます。
 この手紙は「涙袖帖」(るいしゅうちょう)という巻物に纏められていて、東京の楫取家に現代まで伝わっています。楫取家にあるのは、文が楫取素彦と再婚する歳、玄瑞の手紙を持参したためです。いわば元夫の手紙ですが、素彦は同志玄瑞の手紙を快く受け入れます。そして、袖に涙しつつ読んで纏めたことにより、「涙袖帖」と名付けられたとされています。
 手紙には八月十八日の政変に触れたものがあります。玄瑞は「八月十八日のことは実に口惜しい。悪者どもが天皇様を取り囲み、長州藩が守っていた御門を他藩にお預けになり、最近は無礼な憎き口惜しき仕業のみ致し、とても残念だ」と綴っています。反対勢力によって京都から追放されたことを理不尽と批判し、腹が立ってどうにもならない様子が伝わってきます。

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