吉田松陰の妹・杉文(楫取美和子)の物語|2015年大河ドラマ「花燃ゆ」

楫取素彦、群馬県令となる

 楫取素彦は明治維新後いったん帰国して藩に出仕するようになります。明治5年(1872年)に足柄県参事、明治7年(1874年)に熊谷県権令(県令に次ぐ県の地方長官)となり、明治9年(1876年)の熊谷県改変に伴って新設された群馬県令となりました。
 素彦の在任中には、群馬県庁移転問題で前橋が正式な県庁所在地と決定され、高崎から楫取は反発を受けたということもありました。

 

 妻の寿は浄土真宗の熱心な信者でもあったので、夫を支えるとともに、酬恩社という教会を設置したりするなど、群馬県での布教活動にも尽力しました。

 

弟・敏三郎死去

 明治9年(1876年)、文の弟・杉敏三郎(すぎとしさぶろう)が病没します。敏三郎は生まれつき耳と口が不自由でしたが習字が得意で読書好きでした。容姿はもっとも兄松陰に似ていたといわれています。

 

兄・民治が松下村塾の指導にあたる

 明治9年(1876年)、兄・民治が退職すると、松下村塾で子弟の指導にあたるようになります。晩年は見学にくる学生を案内するのが楽しみだったといいます。

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松陰・文の誕生
吉田松陰は長州藩士・杉百合之助、母・滝の二男として、杉文は四女として生まれます。文が生まれたのは松陰が14歳のときでした。
松陰、九州遊歴に発つ
吉田松陰は西洋兵学などの見聞を広めるために九州遊歴に出発します。
松陰、江戸に遊学、佐久間象山と出会う
吉田松陰は江戸に遊学し、佐久間象山と出会います。
松陰、宮部鼎蔵と東北遊学へ
吉田松陰は間宮林蔵と東北に遊学します。しかし、軽率な行動が罪に問われてしまいます。
松陰、海外へ密航を試みる
吉田松陰は黒船を視察し最新の文明に衝撃を受けます。なんとしても西洋の文明に触れてみたいと思った松蔭は海外への密航を企てます。
松陰、杉家の敷地で松下村塾を開く
野山獄に収容された松蔭は、囚人を相手に授業を行います。出獄後、杉家で松下村塾を開塾します。
文と久坂玄瑞が結婚する
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松陰、老中暗殺を計画する
孝明天皇の意向を無視した大老・井伊直弼の強行に、吉田松陰は激しい怒りを覚えます。
松陰、伝馬町獄で斬首される
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玄瑞、松陰の遺志を継ぐ
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長州藩尊王攘夷派の躍進
長州の藩論が尊王攘夷に変わると、久坂玄瑞や高杉晋作らが中心となり、活動を繰り広げます。
玄瑞、禁門の変にて死す
会津藩と薩摩藩を中心とした公武合体派のクーデターにより長州藩は窮地に追い詰められます。長州藩軍は京へ進発し禁門の変が起こります。
長州征討軍、長州から撤退する(第一次幕長戦争)
禁門の変を起こした罪により、朝廷は長州征討を宣言します。
晋作、功山寺で挙兵する
長州の内部抗争から逃れた高杉晋作は、残った諸隊を説得し、功山寺で挙兵します。
第二次幕長戦争始まる
幕府は長州の征討を再度宣言します。長州藩は藩政府改革を実施し、西洋式への軍制改革を行い征討に備えます。
第二次幕長戦争は長州の圧勝におわる
幕府の大島口への砲撃を皮切りに、長州藩の各藩境で戦闘が勃発します。
毛利家の守役となり、名を美和子と改める
夫・久坂玄瑞を禁門の変で亡くした文は、毛利家の守役となります。このころ名を美和子と改めたといわれています。
萩の乱
前原一誠は郷里の人々の不遇を見捨てられず、萩で明治政府に対する反乱を起こします。
美和子、楫取素彦と再婚する
群馬県令・楫取素彦は、亡くなった妻・寿の妹である美和子(文)と結婚します。
素彦、富岡製糸場の存続のために奔走する
楫取素彦が群馬県令を勤めているなか、群馬県富岡の製糸工場、富岡製糸場は存続の危機にさらされます。
晩年を防府で過ごす