吉田松陰の妹・杉文(楫取美和子)の物語|2015年大河ドラマ「花燃ゆ」

第二次幕長戦争は長州の圧勝におわる

幕長戦争は長州が圧勝する

 慶応2年(1866年)6月7日、幕府による大島口への砲撃を皮切りに、13日には芸州口、17日には石州口、小倉口の各藩境で戦闘が開始されました。長州藩は兵の数で劣りながら、次々と勝利を重ねます。
 小倉口では、小笠原長行を総督とする九州諸藩と高杉晋作、山縣有朋らが率いる長州藩との戦闘が関門海峡をはさんで行われました。しかし、長行は熊本藩はじめ九州諸藩を束ねることができずに負けを重ねます。その後、長行は将軍徳川家茂の死の報を聞くと、戦線から逃走してしまいます。小倉城は陥落し、幕府は全面敗北となりました。

 

幕府の権威が喪失する

 徳川慶喜は自ら出陣して巻き返しを宣言していましたが、小倉城陥落の報を受けてこれを中止します。家茂の死を公にした上で朝廷に働きかけ、休戦の勅許を得ます。この行為は孝明天皇の意に背くものであったため、一会桑(一橋家の慶喜、会津藩の松平容保、桑名藩の松平定敬)の破綻につながっていきます。
 今回の長州の勝因として第一にあげられるのは、散兵戦術などの西洋式戦法にありました。一方、幕府の敗因は、薩摩藩などの参戦の拒否があり当初から士気が上がらなかったこと、そして、小笠原長行の指揮の拙さによる諸藩の離脱でした。
 この敗戦により幕府は権威を完全に失い、幕末に向けての大きな転換点となったのでした。

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