吉田松陰の妹・杉文(楫取美和子)の物語|2015年大河ドラマ「花燃ゆ」

松陰、九州遊歴に発つ

松陰、一層の成長のため遊学を決意

 弘化5年(1848年)1月、吉田松陰は19歳で明倫館の兵学師範として独立し、講義を受け持ちます。しかし、松陰が新米教師だったからか、それほど人気にはなりません。松陰はもっと教師として成長しなければいけないと痛感します。また、天保10年(1839)のアヘン戦争にて、清が西洋列強に大敗したことを知り、幼少から学んできた山鹿流兵学は時代遅れになったのではと疑問に感じます。これらのことから、松陰はもっと見聞を広めようと、藩外へ遊学を決意するのでした。

 

最初の遊学先は九州平戸

 松陰の最初の遊学先は九州の平戸でした。平戸を選んだのは、平戸には山鹿流兵学の宗家があるのと、長崎まで行けば、最新の西洋の知識を得られるのではと思ったからです。嘉永3年(1850年)8月25日、松陰は平戸へ出発します。

 

平戸で砲学に触れる

 9月14日、平戸に到着します。途中立ち寄った長崎では、オランダ船に乗り内部を見学して、ぶどう酒、洋菓子やパンを口にするなど珍しい体験をしたといいます。
 平戸では山鹿流宗家・山鹿万介や陽明学者・葉山左内に学びますが、11月には長崎に移り、砲学の高島塾に出入りするようになります。また、長崎の台場を見学したり、たくさんの蘭学者を訪れたりしました。

 

帰国の途中で宮部鼎蔵と出会う

 12月帰国の途についた松陰は、熊本に途中滞在します。そこで宮部鼎蔵(みやべていぞう)と出会います。宮部は松陰より10歳上で熊本藩の兵学師範を務めていました。後に松陰は宮部を「毅然たる武士なり。僕常に以って及ばず」と評し、生涯の友となるのでした。

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