吉田松陰の妹・杉文(楫取美和子)の物語|2015年大河ドラマ「花燃ゆ」

玄瑞、禁門の変にて死す

八月十八日の政変にて長州藩敗れる

 長州藩は大和行幸(やまとぎょうこう)と攘夷親征(じょういしんせい)を奏請し、文久3年(1863年)8月13日、孝明天皇から詔勅が下りました。この時が、長州藩の尊王攘夷派の絶頂期でした。ひそかに会津藩と薩摩藩を中心とした公武合体派は、中川宮朝彦親王を擁して尊王攘夷派を討伐するクーデターを計画していたのでした。
 8月18日、会津藩・薩摩藩の連合軍はクーデターを起こし、長州藩は一敗地にまみれました。(八月十八日の政変)久坂玄瑞らは三条実美ら七卿とともに長州藩へ帰国しました。

 

大和行幸…天皇が神武天皇陵などに行幸し攘夷親征の軍議を行い、その結果を伊勢神宮に報告するという計画
攘夷親征…外国征伐のために天皇自ら出陣すること

 

禁門の変

長州軍、京へ進発

 八月十八日の政変により、三条実美らの官位剥奪、長州藩主毛利敬親・定弘親子の上京禁止、長州藩士の宮門出入り禁止など、長州藩が朝廷から一掃されました。敬親は家老を派遣して攘夷実行の正当性を訴えようとしましたが、京に入ることすら許されませんでした。玄瑞は京都と長州を往復しながら失地回復を図っていました。玄瑞は、京都留守役の乃美織江(のみおりえ)、桂小五郎、入江九一、寺島忠三郎らと京に潜入し、藩主の宥免活動を行っていました。長州藩内では、来島又兵衛(きじままたべえ)、三条実美、真木和泉(まきいずみ)らが武力をもって長州の無実を訴えるという進発論を唱えていました。この論に対し、玄瑞は桂小五郎らと共に隠忍自重しての再起論を唱えていました。
 しかし、元治元年(1864年)4月、玄瑞は、京都政局が長州藩への態度を巡って分裂の様相を示すと、薩摩藩の島津久光、福井藩の松平春嶽、宇和島藩の伊達宗城らが京都を離れたのを機とみて、一転、進発論を唱えるようになりました。玄瑞は長州藩の世子・毛利定広に上京を建言し、6月4日、進発令が発せられました。
 さらに6月、長州藩士らが襲撃された池田屋事件の報せが届きます。そのため、益田右衛門介(ますだうえもんすけ)、福原越後(ふくはらえちご)、国司信濃(くにししなの)の3家老が先行して京に進発し、まもなく八幡・山崎を占領します。

 

久坂玄瑞と来島又兵衛が対立する

 6月24日、玄瑞は長州藩の回復を願う「嘆願書」を朝廷に上奏しました。長州藩に同情する公卿や他藩士も現れます。しかし、7月12日、長州藩が京に着くころには、幕府はすでに諸藩に長州軍討伐の令を下していたのでした。
 7月17日、男山八幡宮の本営で長州軍最後の大会議が開かれました。玄瑞は、今回の上京の主目的は嘆願を重ねることであり、こちらから戦闘を開始して朝廷の退去命令に背くべきでないと主張。しかし、来島又兵衛が激しく反発します。最後は参謀格の真木和泉が賛同したことで進発が決定します。玄瑞も仕方なしと自陣に戻るのでした。

 

玄瑞、禁門の変にて自刃する

 薩摩藩は、これは長州藩と会津藩の戦いだと、立場を明確にせず幕府からの要請も拒否していました。しかし、長州藩が八月十八日の政変を否定したことでその矛先が薩摩藩に向かうと判断し、一転、長州藩討伐を決意します。
 7月19日、ついに禁門の変(蛤御門の変)の開戦となります。来島又兵衛は蛤御門を攻めますが、西郷隆盛率いる薩摩軍に破れ、長州軍は総崩れになります。ほぼ勝敗は決していましたが、玄瑞は堺町御門を攻め薩摩軍を破り、関白の鷹司輔熈(たかつかさすけひろ)邸に入ります。玄瑞は鷹司に最後の望みをかけ、朝廷へ嘆願させてほしいと懇願します。しかし、鷹司はそれを振り切って出ていってしまいます。鷹司邸はすでに火の海。玄瑞は入江九一らに世子・毛利定広を近づけないようにと後を託します。最後に残った玄瑞は同志寺島忠三郎と刺し違えて自陣。享年25歳、松下村塾きっての英才、早すぎる死でした。また、後を託された九一も彦根藩兵と戦闘の末、討ち死しました。
 翌日、天竜寺での掃討戦で、毛利親子の国司あての軍令状が発見されます。これにより藩をあげての暴挙が明るみになり、長州藩は窮地に陥る事になるのでした。

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